物理に関するひとつの考察

はじめに

今日、下北沢までいってお芝居を見てきました。 芝居の題目はずばり「定理と法則」(坂手洋二作・演出)。 物理と数学の違いや、 ニュートンとフックの確執、はてはオウムのサリン事件にいたる 現在の社会現象まで取り込んだ、とても興味深いお芝居でした。 残念ながらこのお芝居は、科学の本質とその社会との関わりについて、 深く突っ込んだ精密な議論がなかった(あるいは表に出てこなかった) 点について、僕はちょっと不満でした。科学と社会という抜き差しならない 関係について、芝居ではどくとくのタッチで断片的な場面をみせるだけです。 (その見せ方が天才的なのだけど、、)帰ってくる電車の中でいろいろ 考えてみました。僕自身、物理の研究者の端くれであり、理論物理の 方法や概念について、ある程度の感想を抱いており、そのイメージと 芝居でのイメージを重ねたときどことなく感じる違和感はどこから くるのだろうか、と。

それと同時に僕は、昔SEGという塾で高校生に物理を教えておりました。 ですから、大学受験にむけて、高校生がいったいどんな勉強をしているか、 とか物理や数学に関してどんなイメージを抱いているか、ということについて、 一定の知識があります。そこでの授業内容と、実際の物理学(広くは自然科学) との間にあるとても大きなギャップも、強く感じているのです。 そのようなことと、芝居で言わんとしていたこととには、なにか関連が 在るのだろうか?

このようなギャップはどこからくるのか?結局、物理とはどういう学問であり、 それを子供たちにどのように伝えて行くべきか?そんなことを考えながら、 このちょっとした文章を書いてみることにしました。

物理学の方法

物理とは何かを考える上で、とても参考になるのは、歴史を追ってみることです。 多くの場合、物理学(広くは自然科学)の発祥となったのは、デカルト、ガリレイ あるいはニュートンの時代であったといいます。それ以前にも、自然を理解しようと いう動きはもちろんありました。古くは、ギリシャ時代から、身の回りの現象や 天体の動きについて、活発な議論があったことは、間違いないのです。 アリストテレスは天体の運行を天動説によって説明しました。その正確さは、 コペルニクスをもってしても、かなわなかったといいます。またアルキメデスは、 静流体力学について重要な貢献をしています。 しかしながら、高校で扱う物理では、特にガリレイ以降の仕事に注目します。 もっとも象徴的なのは高校物理が、まさにガリレイの落体の法則から 始まっていることです。それはなぜでしょう?

それは、研究の方法論によるところが(たぶん)大きくかかわっているのです。 ガリレイ以前の理論といったら、こんな調子です。「なぜ物体は落下するのか」 「物体が落ちようとしているからさ」これでは、科学とはいいがたいのです。 何が科学的であって、何が科学的でないか?これはかなりはっきりしています。 この点については、デカルトがかなりはっきりしたことを言ってい ます。(詳しくはデカルト著「方法序説」岩波文庫を呼んでみましょう。) すべての事柄を批判的に見よ。一度立てた仮説は、徹底的な検証によって 確かめよ。検証によって絶えられない理論は、どんどん棄却していきます。 さらに、その検証の具体的な方法が「実験」なのです。(実験の英語訳 Experimentは拷問という意味も持っています。自然を拷問にかけるわけです。) すべては、たえまない徹底的な実験によって理論を検証していきます。 実験によってその正しさが議論できないもの(さっきの問答みたいな) は、価値ある弁明とはいえないのです。

ここでとっても面白いのは、科学とは決して「完璧」ではないということです。 実験によってさまざまな理論が「否定」されていきます。しかしながら、 その理論が絶対正しいという保証を与えるわけではありません。 その実験では、理論は「否定されなかった」とだけいえるのであって、 いつなんどき理論が否定されてしまうか、わからないのです。 その例はたくさんあります。ニュートンの力学の理論は、天体の運行や 身の回りの力学現象に関して正しい説明をあたえ、200年以上にわたって、 実験によって支持され 続けていました。しかし、現在ではニュートン力学は、原子レベルの スケールでは間違いであることがはっきりしています。 科学が完璧なものであると思っている人がいるならば、その人こそ 間違っているのです。

もう少しこの点について、塾での経験を交えて、 はっきりさせましょう。高校になるとまず 最初に学ぶものに、ニュートンの運動方程式があります。 でも、教えるほうも習うほうも、この方程式がどんな意味をもっているかに ついて、深く考えていないのではないかと思うときが、ままあります。 というのも、塾で教えている時間のほとんどは、ニュートン方程式の 「使い方」に重点がおかれるからです。かく言う僕だって、 塾では高校生に力学を教えるときに、物理を理解してもらうために いろいろ演習しますが、じゃあ本当に運動方程式がなりたっているかどうか、 実験することができないでいます。本当に成り立つんだと理解するには、 「実験」が不可欠です。これがなければ、なんのための物理なんでしょう? 高校生の多くは、学校で配布されている問題集をといています。 問題集の多くは確かに親切です。しかし、扱っている問題といえば、 問題を解くための問題なのです。なんのために問題を解くのかわからないまま、 学生は問題を解いているのです。そのことが、なんらかの将来のためになれば、 意味のあることといえるかもしれません。しかし、実際の現象が見えてこない、 ナンセンスな問題がなんと多いことか。そして、せっかく物理を選択したのに、 物理の本当の面白さ、 わくわくするような知的な興奮を感じないまま過ごしてしまう人の、 いかに多いことか。

今の高校の物理の普通のカリキュラムでは、「物理」と「身の周りの現象 (実験)」との間に深い溝があることが、最大の問題であると感じます。 幸いなことに最近になって、理科を教えている教師の間に 楽しく実験しながら学ぼうという機運が高まってきました。頼もしいことです。 これが高校の教育の現場に定着していくといいと思います。この点に関して、 高校の教師が主導的な役割をはたしており、本来科学のプロである 大学の教官に意識が薄いことは、同じ大学に籍を置くものとして、 恥ずかしい思いがあります。物理はこうした実験の成果として できあがっているのであり、数学みたいに問題をとけばいいという ものではないのです。物理とは、身の回りに実際に起こっている「自然現象」と 向き合っている学問なのです。その現象と向き合わないで、いったい どんな意味があるんでしょう?

ちょっと脱線しました。ニュートンの運動方程式の話でした。 この式は、結局のところ「証明できる式」ではないのです。ある種の 「仮説」なのです。いつなんどき否定されるかわかりませんが、 この仮説から出発して、いろんな現象を予測し、実際にその現象が 確認されるならば、よかろう、という結構場当たり的な「主張」なのです。 完璧な物理理論なんて存在しませんし、これからも存在しないことでしょう。

この点は数学と大きく違っていることは、興味深いことです。 数学では、理論が間違えるということが 絶対にありません。数学で得られる定理は常に正しく、間違いが混入することが ありません。それは、数学では必ず公理と呼ばれる「前提」から出発し、 その前提で規定される一定の範囲の事柄に注目するからです。 前提から一定の規則によって導かれる「定理」をみつけ、証明することが 数学者の仕事です。ですから、数学者はその前提に縛られているし、 ましてや自然現象について何かを述べることができません。

数学と物理の関係

数学と物理の関係は、とても興味深くかつ神秘的です。未だに我々に 理解できない何かがあるのではないかと思うほどです。 まず一度学んだことがあればわかると思いますが、物理では数学の 使用が必須です。物理で数学を使わないということは、手足を縛られた まま遠泳するようなことに相当します。例えば、ニュートンの万有引力の 法則にしても、「すべての物体には、その二つの物体間の距離の二乗に 反比例し、二つの物体の質量の積に比例した力が働く。」なんていっているより、 F=GMm/r^2と一発で数式で書いたほうが簡単です。また数式を使い慣れてくると、 文章でかかれたものをみるより、数式のようが現象を理解しやすく、頭の中に すっと入ってくるものなのです。また、誰にもより明らかな形で計算や 議論を進めることができます。

こういうことって、ちょうど日本人が英語などの外国語を学ぶのとちょっと 似ています。物理学者にとって、数学は一種の言語です。この言語は、 自然を記述するのに大変向いています。だから、物理学者としては、 身の回りの現象に目を向けるばかりではなく、数学という万国共通の 言語を学ぶわけなのです。(数学という言語があると、英語が多少話せなくても、 外国人と議論ができます。これは、僕の実体験からいって本当です。) さらに面白いことに、物理学が始まった時期(ニュートンの時代)より はるか以前に、数学という言語は確立していたことです。 数学の厳密性とか、公理から出発するやり方は、ユークリッドの時代 に出来上がっていましたし、物理学で大変重要になってくる座標の 発明も、ニュートンのちょっと前(デカルトによる)に出来上がっていました。 文字や方程式の「記号」もルネサンス期には、確立していました。 まるで物理の発祥を待っていたかのようです。いや、数学という言語が 整備されていたからこそ、ニュートンやガリレイは物理を議論できたのかも しれません。

物理は数学の言語によって記述されるだけでなく、数学に対しても大きな 影響を与えています。ニュートンが力学を作り上げる際に使用した 微分積分学は、後の数学のとても大きな影響を与えていまし、 現在も物理学で得られた成果が数学に影響を与えつづけています。 例えば、素粒子における超弦理論や、物性理論における量子群などが 現在ホットな話題となっており、これらの発展が数学にも影響を 与えつづけています。 物理をやっている人間としていうと、自然を記述するための 数学というのは、ただ単に人間の頭の中だけで生まれてきた数学より 豊かなのではないか、という感覚をもっています。

物理と数学はこのようにお互いに影響しあって発展してきました。 ですから、物理を学ぶ上で数学、特に微分積分学の習得は必須です。 しかしながら、(悲劇的なことに)現在の高校のカリキュラムでは、 物理で微分積分を使用してはいけないことになっています。 これでは物理の真の理解する上で不充分であり、非常に残念なことです。 特に微分方程式が数学のカリキュラムから消えてしまったことは、 物理にとってとても不幸なことです。微分方程式を学ばずして、 力学の基本方程式である運動方程式を本当に理解したことになるのか? 幸いなことに微分積分を積極的に利用した高校生向けの参考書が 存在しています。かくいう私もこのような本を読んで感動した口です。 また、私が教えている塾では、微分積分を積極的に取り入れた授業が 可能であり、ある程度首尾一貫した授業が可能でした。

しかしいくら物理が数学を必要としているといっても、やはり数学と 物理は違う学問です。物理は、数学と決定的に考え方がちがっています。 すでに述べたように、物理では自然を理解するためにいくつかの仮定を おきます。例えば力学における運動方程式はその典型です。これらは、 数学と違って証明ができません。すべては実験によってその成否が 確かめられます。しかも、実験は仮定を否定することはできますが、 肯定することはできません。実験では常に誤差がつきものであり、 その誤差の範囲内であっているようにみえるだけかもしれません。 事実、ニュートンの力学は200年以上にわたって実験によって 支持されてきました。しかし、今世紀にはいって実験の精度が上がり、 原子や分子のレベルまで観測ができるようになってくると、ニュートン の力学は成立しないことが判明しているのです。ニュートン力学は、 われわれの身の回りの現象に対して、精度よく予言できたのですが、 それはあくまで近似的なものだったのです。


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Last Update: 1998.5.18

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